中谷宇吉郎「雪」

某大学に助教として在籍していたとき、「人生を決めた書物」というブックレットへの寄稿依頼がありました。その時に、自分が大学生の頃を思い出してみて、ふと、 中谷宇吉郎の『雪』 という本を紹介したいと思い、文章を書いてみた記憶があります。この文章は、そのときに書いた原稿に少し手を入れたものです。

『雪』は、「雪は天から送られた手紙である」という詩的な言葉を残した雪博士・中谷宇吉郎が自らの研究について語った名著である。この言葉の由来となる一節は、この本の最後の最後に現れる。

このように見れば雪の結晶は、天から送られた手紙であるということが出来る。そしてその中の文句は結晶の形および模様という暗号で書かれているのである。その暗号を読みとく仕事が即ち人工雪の研究であるということも出来るのである。

中谷は北大理学部に赴任した頃、雪の結晶の多様な形を目にし「自然の工(たくみ)の持つ雰囲気」に感動したことをきっかけに雪の研究を始めたらしい。雪の結晶は6次の対称性を持つ美しい六華の形が今でも有名だが、これ以外にも複雑な形態を持つことはすでに知られていた。しかし、多様な結晶が生成する詳しいメカニズムについては全く分かっていなかった。

中谷のもともとの専門は原子物理学であり、雪に関する知識は乏しかったはずだ。「実のところ本物の雪を顕微鏡で覗いて見たのはこの時が初めてなのである」という無謀とも思える状況から着手したにも関わらず、如何にも造作ないという風に一歩一歩進んで行き、5年後には世界に先駆けて人工的に雪を作ることに成功してしまう。

実験室の中で何時でもこのような結晶が自由に出来たら、雪の成因の研究などという問題をはなれても随分楽しいものであろうと考えていた。始終そういう気持ちを持ちながら、天然の雪とそれに直接の関係がある霜とを見ていたら、何時の間にかすらすらと雪の人工製作への道が開けて来たのである。

中谷は人工雪を詳しく調査した結果、結晶の形と外界の気象条件(気温と過飽和度)の関係を明らかにする。雪の結晶に刻まれた暗号を読み解く鍵となるこの関係は、現在、ナカヤ・ダイアグラムとして世界的に知られている。中谷の研究によって、雪は美しいばかりでなく、上層の気象の状態など、大気の構造に関する様々な情報を包蔵していたことが明らかになったのである。

さて、私は研究者になることを目指していた学生時代、研究室で実験を始める同級生たちを横目に、大学の図書館に籠って将来必要と思われる知識を詰め込む毎日を送っていた。研究に取り組むためには予め十分な知識が必要であり、その知識を得るためには相応の訓練が不可欠であると頑に信じていた。

一通り「訓練」が終わり、意気込んで研究に取り組み始めたとき、一歩も前に進めなくなっている自分に気付いた。とりあえず実験データは得られるが、複雑なデータを読み解き、そのデータの背景にある法則性を導き出すことが出来ない。周到だと思っていた自己実現プランの何が間違っていたのか、全く見当がつかなかった。

急速に自信を失っていた頃、出会った本の1つが中谷の『雪』である。中谷の研究では、物理的直感が随所に活躍する。直感的な思いつきを億劫がらずに実践することで、現象の本態に潜む問題の所在が明確にされ、解決の道筋が徐々に照らし出されていく。まるで推理小説のように。

中谷の師・寺田寅彦は「嗅ぎ付ける力がなくては本当の研究は出来ない」という心得を残している。研究は、既知の知識を集積すれば済むものではなく、目の前の現象に対して純粋な興味を持ち、直感的な推理を働かせることが必要である。結局当たり前のことだが、自分で考えることが足りなかったのだ。

このことを自覚させ、研究の本当の楽しさを教えてもらった『雪』は、私の人生を決めた一冊である。

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