フーコーとナラティブセラピー:「当たり前」への違和感に向き合う

「また今朝も寝坊してしまった…」
Aさんは、いつもこんな風に自分を責めていました。「早寝早起きは三文の徳」という言葉が頭をよぎるたびに、罪悪感に襲われてしまいます。

なぜ私たちは、「早起き」を無条件に「良いこと」だと信じているのでしょうか。そして、この「当たり前」は、本当に疑う余地のない真理なのでしょうか。

こんな疑問を徹底的に考え抜いた人がいます。20世紀フランスの哲学者ミシェル・フーコーです。そして、フーコーの考え方に影響を受けて生まれた心理療法があります。「ナラティブ・セラピー」です。


フーコーは、私たちが「真理」や「正しいこと」だと信じていることの多くが、実は特定の時代や社会によって作られたものかもしれないのでは、と考えました。

「早寝早起きが健康的」という考えを例に取ってみます。ある程度の医学的な根拠もあるのではと思います。でも、この「当たり前」に疑いをもって向き合ってみると、興味深いことも見えてきます。

産業革命以降、工場や学校は朝早くから始まるようになりました。「朝8時の始業ベル」「朝礼」といった制度は、規則正しい労働者や生徒を生み出すための仕組みでもあったと思います。つまり、医学的な「知識」と、社会が求める「規律」が手を結んで、「早寝早起き」を絶対的な「真理」として私たちに提示してきたのかもしれません。

フーコーはこれを「権力と知識の結びつき」と呼びました。何が「正しい知識」とされるかは、その時代の社会の仕組みや力関係と切り離せない。


この「当たり前」への問いかけは、心理療法の分野にも影響を与えています。ナラティブ・セラピーを生み出したマイケル・ホワイトとデヴィッド・エプストンは、フーコーの考え方を参考に、こんなことを考えました。

「私たちは、自分の人生についていろいろな『物語』を持っているのではないだろうか」

物語(ナラティブ)とは、簡単に言えば「自分についての語り方」「自分をどう理解しているか」ということ。

冒頭のAさんの例に戻ってみます。Aさんは「私は意志が弱い人間だ」「私はだらしない人だ」という物語を自分について語っていました。でも、この物語は本当にAさんの「真実」なのでしょうか。それとも、「朝型が正しい」という社会の価値観に影響されて作られた物語なのでしょうか。

実際、シエスタ(昼寝)の文化を持つスペインや、白夜のある北欧では、「早寝早起き」の意味も大きく違うはずです。文化によって「正しい生活リズム」は異なるのに、なぜ私たちは一つの基準に縛られてしまうのでしょうか。


ナラティブ・セラピーの技法のひとつに「外在化」というものがあります。これは、問題をその人の性格や能力の問題として見るのではなく、その人に影響を与えている「外部の力」として捉え直してみる、というもの。

例えば、カウンセリングの場ではこんな対話が交わされるかもしれません:

Aさん:「私は朝起きられないダメな人間です」
カウンセラー:「なるほど。では『朝起きることの困難』は、どんな風にあなたの生活に影響を与えていますか?」
Aさん:「え?…そうですね、罪悪感を感じさせたり、自信を奪ったり…」
カウンセラー:「その『罪悪感』は、どこから来ているのでしょうね?」

この小さな言い換えによって、Aさんは「ダメな人」というレッテルから少し距離を置き、問題を別の角度から眺めることができるようになります。もしかすると、本当の問題は朝起きられないことではなく、「朝起きられない人はダメ」という社会の物語なのかもしれません。


そして、ナラティブ・セラピストとの対話を続けるなかで、Aさんさんはこんなことに気づくかもしれません:

  • 「早寝早起き」にはメリットもあると思うけど、それが唯一の「正しい」生き方だと決めつける必要はないはず
  • 実は、夜の静寂にこそ集中できる創造的な作業がある
  • 世界中の人とオンラインでつながる今、時差を活かした夜型の生活にも合理性がある
  • 「朝起きられない」と自分を責める時間の方が、よほど無駄かもしれない
  • 他人の期待ではなく、自分のリズムを大切にしてもいい

フーコーは、「批判」を「統治されないための技術」と表現しました。これは「今の社会のルールに、必ずしも従わなくてもいいのではないか」ということを考えるための技術であると言えそうです。

社会の「あたり前」との折り合いをつける。そんな「技術」を身につけていくことが、本当の意味での成長なのかもしれません。


フーコーが明らかにしたのは、私たちの「常識」や「真理」が、実は特定の時代や社会の力関係と深く結びついているということです。そして、ナラティブ・セラピーは、そうした社会の「物語」に縛られた個人が、新しい自分の物語を紡ぎ直していく可能性を示してくれます。

これらが示しているのは、私たちが「当たり前」だと思っていることは、実はそれほど絶対的ではないということ。そして、その「当たり前」を問い直すことで、私たちはより自由に、より創造的に生きることができるかもしれない、ということだと思います。

私たちのそれぞれの生き方にはそれぞれの価値があるはずです。大切なのは、社会の声に耳を傾けながらも、自分自身の声を見失わないこと。フーコーとナラティブ・セラピーが示してくれるのは、まさにそんな生き方への道筋なのかもしれません。

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中山 元『フーコー入門』
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今を生きる思想 ミシェル・フーコー 権力の言いなりにならない生き方
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